会社経営と家庭のストレスで薬に依存している兄のピエール、支配的で頑固なオバサン教師のクララ、アルコール漬けで家族にも見捨てられ一文無しの弟のクロード。互いを認めず険悪な仲の兄姉弟が、亡き母親の遺産を相続するため、フランスのル・ピュイからスペインの西の果て、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで1500kmにも及ぶ巡礼路を一緒に歩くはめになった。
このツアーの同行者は、ベテラン・ガイドのギイ、楽しい山歩きと勘違いしてお気楽に参加したハイティーンの女の子達、エルザとカミーユ、カミーユを追って参加したアラブ系移民の少年サイッド、従兄弟であるサイッドにだまされてイスラムのメッカへ行けると信じ、二人分の旅費を苦しい家計から母親から捻出してもらったラムジィ、頭をターバンで包んだ物静かな女性マチルド。9人の男女が、様々な思いを胸に、フランスのル・ピュイから旅の一歩を踏み出した。
果てしなく続く岩山の道。文句タラタラ、さらには差別的な言葉を不用意にもらすピエール。自分の荷物は何一つ持参しないのに他人の水を遠慮なく飲んでしまう勝手なクロード。好戦的なクララは、そんな二人と何かにつけていがみ合う。
他のメンバーもそれぞれ事情を抱えている。「メッカ」に行き、旅の間に失読症を直して大好きな母親に喜んでもらいたい少年ラムジィ、わが子が病気と知りながらガイドの仕事を続けるギイ、過酷な運命の中で絶望と希望の狭間にいるマチルド…。
爽やかな風を全身で受け、ピレネーを越え、フランスからスペインへ。
一行はまっすぐ続く一本道を、急勾配の道を、天候に関係なくひたすら歩き続ける。それは、まさに人生のように長く起伏に富んだ道。1500kmもの徒歩の旅のゴールには、いったい何が待っているのだろう…?
人はアニバーサリーを大切にする。最近目にしたところでは松本清張や岡本太郎生誕100周年で、各所様々な特集を組んだけれど、ピアノの詩人ショパンの生誕200周年に関しては知っている人たちでアットホームに祝っている感じ。メディアが仕掛けるブームに心が疲れ気味の昨今、それは何ともほっとする、ありがたい温度だ。
ショパンの音楽性がそうさせるのかもしれない。日常の空間にすっと流れる、まるで空気のようにきわめて自然に、勿論かけがえのない上質の自然さで。そばにいてくれる音楽。盛大にやるよりも、プライベートで聴くのが似合う。
わりあい静かなショパンイヤーをささやかに記念して、とある地方都市の上映会は、小さめのホールで1934年制作の貴重なモノクロフィルムを流した。祖国ポーランドとの別離とパリ社交界デビュー、才女ジョルジュ・サンドやピアノの魔術師フランツ・リストとの邂逅。フレデリック・ショパンの半生を物語るに外せないエピソードをおさえながらも順不同で、その自在さに驚嘆する。耳によくなじんだ代表曲も、実際の作曲年代にこだわらずイマジネーションの奔流にまかせて登場させている。
サンドの美貌と才気にすっかりのぼせあがってしまう、ショパン坊やが可愛い! しかし、それ以上にぐっと来るのが、ピアノを通して結ばれるリストとの絆である。まったくのファンタジーで、こんなことってないでしょうという突っ込みどころ満載なのにもかかわらず、天才同士の交流に胸が熱くなってしまう。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない。ピアノ弾きを輝かせるのはピアノ弾き。才能を理解するのもまた才能であるということ、そこに夢がある。
また、この映画の上で、ショパンがパリの初演中に迸らせた革命のエチュードは、斬新な視覚効果を伴って轟き、興奮に誘ってくれる。そう来たか! と古典映画がやってのける大胆さに目を瞠るばかりである。
母が所望した『本当は恐ろしいグリム童話』と並べて置けば、面白い絵になるのではと考えて選んだ。グリムやアンデルセン、ギリシャ神話、日本昔話、カフカのパロティまで、世界のお伽話をアレンジしたダークな短編集だ。著者に関心があったのも手伝って、選んだ一冊でもある。倉橋由美子のゴシック嗜好が、古今東西の童話に蜜のごとく絡みついて、毒々しく、いかがわしいムード満載。
しかし、中身が分かってみると、『大人のための~』と『本当は恐ろしい~』を連ねるなんて悪い冗談でしかない。この二冊はあたかも似た志向(エロ)でまとめたかに見えて、そのじつ、相当な差異がある。本来、並べて論じるものではないが、強引に言うと、二冊の共通項から、大人が童話に求めるコトが浮かびあがってくる。
たてまえとしては、童話とは児童に読ませる話。多くの「良識ある」大人は、子供に見せたくない陰惨な要素を、注意深く取り除く。「良識ある」層ほど、童話の比喩の裏にどれほどの人間の邪(よこしま)さや欲深さが潜んでいるのかに、自覚的だからだ。
大人のためのと銘打った童話は、惨たらしく嫌らしい。除去した箇所が修復された光景に、大人達は「そうそう、童話は本当は残酷なのさ」と非常に納得顔をする。前々から思っていたことを言葉化されて、すっきりするのだろう。
と言っても、残酷だというだけでは、既知の人に訴えるものが少ない。本書が特別に興味深いということはないが、倉橋のインテリジェンスに触れられるのが、この本を読む愉しみになっている。一旦、氷水をくぐらせたかのように冷たくひかる言葉で表され、読むと頭の中がさっぱりする。
大抵の下ネタは、笑うことを強要するが少しも笑えない。この手の話をすると、品性がなくなるらしいのだ。エロティックな会話を交わすなら、こんな風に(というのも何だが)気品のある、お高くとまった語り口だったら楽しめそう。
この本を希望したのは母であった。娘は気がのらなかったが、刊行から幾年か経っても母の気が変わらなかったので、意を決して図書館へ。ただ借りても面白くないので、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』と共に運んできて、並べた画を眺め、一人満足したのだった。―了―
というだけでは味気ないので、一旦、目を通してみた。
子供の頃読んだ童話が既にして、真っ赤に焼けた鉄の靴で躍らせたり、家族の肉入りスープを食べさせたりする話であった。その冷酷無慈悲さたるや、本書の比ではなかったと記憶している。童話の恐ろしさには、目新しさはない。また、はっきり言えば本書はレディースコミック風の読み物なのだけども、中身は大人向けでも、文章はむかし読んだ版よりかえって幼い調子だ。おどろおどろしい雰囲気はないのである。
では、何が本当に恐ろしいのか?
童話は無慈悲だ”というだけでは”もはや動じない、オトナゴコロの恐ろしさを再認識させられた。時がもたらす変化は、なるほど怖いくらいだ。
それから、コドモゴコロの恐ろしさもふりかえってみたのだった。子供時代こそ、グロテスクでナンセンスなものを強烈に求めていた。タブーの存在自体に反応する奇妙な熱情に、幼少期の残酷さがあった。コドモゴコロとはかわいさだけでは語れない、容赦を知らぬ恐ろしいものだった。そこを大人も承知の上で、見せるには早すぎる箇所を省き、書きかえながらも、怪奇とミステリを多数児童書として取り揃えておくのではないか。
その時省かれるのは、血生臭く惨たらしい箇所と共に、エロティシズムもある。『本当に恐ろしいグリム童話』は、エロティシズムの回帰をはかりながら再構成したグリム童話らしい。エロスとエロは違う。どちらも需要があることと思う。これは一文字足りない方だった。
『シンデレラ』のみ、従来のヒロイン像から離れて異彩を放つ、読むところのある小品かも。
この映画について、このタイミングで書くことになろうとは思いもしなかった。今(2011年3月)、テレビもラジオも災害情報を報じ続け、水害の映像が胸を痛ませている。ためらう気持ちもあるが、こんな時だからこそ、水が印象的に登場する傑作として、『エレニの旅』を挙げることから、逃げずにいたい。
決して映画の中身が幸せなものでなくとも、アンゲロプロス作品と出会えたのは圧倒的な幸福だった。何作か観た。どれもが素晴らしかった。空も草も静かに青ざめ、土は冷たく湿っている、その「色味のない色遣い」で映るものの全てを、凍えるような思いで観ながらも魅了された。ある一人のギリシャ人女性が水のように生を流れ続ける『エレニの旅』も、印象深かった。
当時のギリシャ人の生は政情と切り離すことが不可能で、エレニさんもごく平凡な女性らしいが、平凡ということが激動の内側にある。どこかに落ち着くことなく、エレニは旅しなければならない。彼女を押し流す力がある。映画全体を浸し、村を沈めてしまう、「水」のような力――
エレニを押し流す「水」は、赦さない。一つの場所に留まることや、根づくこと、愛するひとと共にあること、つまりは人として当たり前の願いを、あたかも罪悪であるかのように。それは悲劇には違いないが、彼女を打ちのめす「水」の厳しさを延々と撮ったその映像は、絵画的な美をたたえ、どこか気高ささえ感じさせる。「かわいそう」「痛ましい」というお安いクローズアップで解決をはからず、エレニは流れに流れてゆく。
生きることに、着地点なんてない。そのことに対し、余計な解説もいらないのだろう。生は、自分の意思で思い通りに運ぶわけではない。さまざまなことが起きる。説明はつかない。水とともに流れるしかないのではないか。
楽しい話ではないので、この映画を観たことをずっと重苦しく感じていたが、今は奇妙にすっきりしている。